レジン・神楽坂大好き   50オバサンの楽しい毎日

毎日楽しく生きるために、色々やってみよう。

父が入院しました3

6月3日

喉から音が鳴っていたらしい。

 

6月7日

担当医が最初の消化器内科に戻り、消化器内科の階に移動。

早く退院したいのに何でできないんや?

て言ってたらしい。

今日はあまり、しんどそうではなかったらしい。

転院予定の病院から家族面談に来るようにと連絡があったらしい。

 

6月8日

鼻の穴に固定するタイプの人工呼吸器が

付いたらしい。

 

6月9日

少し元気そうだったらしい。

お昼ご飯はおかゆと何かの白和えが出ていたらしい。

 

6月10日

朝から熱があったらしい。

お見舞いに行った時は微熱だったらしい。

 

6月11日

朝から熱があり、熱の為リハビリできず。

 

6月13日

鼻と口を覆うタイプの人工呼吸器に変わる。

高濃度の酸素を送らないといけないらしい。

 

6月14日

本人は体調不良を自覚していないが、

酸素マスクをしていても酸素が吸えていないらしく、検査をするとのこと。

検査中に何かあった時に延命治療を行うかの医師からの確認があり、延命治療は本人も家族も望まないことを伝える。

CTで見たら肺が白く映っていて、原因はリンパが癌に侵されてリンパ液の中で溺れている感じだったらしい。

肺の先生は余命2週間とのこと。

しかし、担当医は年齢と今までの進行具合から言って長くて2週間、短いと3日くらいで逝ってしまう可能性

もあるとのこと。

 

6月15日

私も病院に駆けつけました。

遠方から駆けつけた私の顔を見るなり父が

大きく目を見開いて、自分は大丈夫なのか?と聞いてきました。

人工呼吸器をしていて聞こえにくく、私は

聞き違い

「大腸がんなのか?」と。

「違うよ。大腸がんになったのはお母さんだよ!!」

と答えると姉から

「大丈夫なのか?」と言ってるんだよと突っ込まれる。

私のとぼけた聞き違いのおかげ?で父は

「そうやな~大腸がんはお母さんだな~」

となっていましたが、

「自分の葬式に来たのか?」と言い出し、

皆で父が生きているじゃないかと言い聞かせました。

 

6月16日

この日、父は水を飲みたいと言いました。

看護師さんに飲ませても良いか?と聞くと、誤嚥性肺炎で飲むと口から、出てきちゃって大変なことになるから、そして人口呼吸機にも水が入ってるから、それで水分は取れているから口の中を水分を含ませたスポンジで拭くことしか出来ないと言われました。

それを父に説明してもらうと、納得したように頷きましたが、それからも何度もミカン一つでも、ココア一口でいいんだと、喉の渇きを訴えていました。

私たちは父が眠っている間に帰るつもりだったが、忘れ物を取りに戻った時、起きていた父に

「また来るからね」と言った私に父は、

「今度来るまで頑張って生きてるから」と言った。

私はすかさず、

「生きてるじゃなくて、元気になっててよ!!」

と言って帰って来たけど、ちょうど一週間後に父が亡くなることになるなんて、この時の私には想像すら出来なかった。

いつもどこも悪くないのに何で退院できないんだ?と言ってた父も、今思えば何か感じていたのだろうか?

この時の父の言葉が、何度も脳裏を駆け巡る。

約束を守るために、父は頑張ったのかもしれない。

 

6月20日

モルフィネのせいか、頭がぼんやりしているみたいで、

ぼーっと天井を見ていた。

 

6月22日

先生から家族を呼んだ方が良いとの発言あり。

連絡を貰い、夜10時ころ病院に駆けつけた。

意識朦朧としている感じで呼吸は苦しそう。

夜12時まで付き添うが、兄夫婦が泊まって

付いていてくれるということで一度実家に戻り、シャワーした後、いつでも出られるようにして仮眠する。

 

6月23日

朝5時ころ、病院の兄から来た方が良いと連絡あり、駆けつけた時血圧が70と40くらいになっていたが

駆けつけた後、血圧100と60くらいに回復。

酸素も吸えているようだった。

朝9時頃、状態が安定してきたこともあり、兄夫婦と私の夫は車で仮眠。姉は母の様子を見に一度実家に戻りました。

その30分後、急変、自動血圧計が3度計り直すが血圧が計れなくなる。

その後、呼吸が0になったり、27と出たり繰り返す。

あれ?って思っていたら、看護師さんが皆さんを呼んだ方が良いです!!と言われ、

私が外に出て皆に電話で召集をかけ、急いで病室に戻る。すぐに、兄夫婦と夫は駆けつけるが、姉が来ない。

血圧は相変わらず計れない状態。

呼吸数0と数字を繰り返すが、0が多くなってくる。

そして、呼吸数0になってからも、心臓はまだ動いていた。

その後心臓の心拍数も0に。

看護師さんが

「全て0と言うことで、確認の為医師を呼びます。」

死んだんだ!!と思った途端涙があふれ出て、止まらなかった。

その場にいることが出来ず、病室を飛び出した。

そこへ姉が現れた。

「死んだ」と一言。

急いで病室に入る姉。

「肝心な時に、会えなかった」

「家に帰っていた、たった30分の間に逝っちゃうなんて」

でも、私は思う。

人が逝ってしまうその瞬間。あまりの衝撃だった。

見た感じはまだ生きているように見えるのに、データーが0,0,0で突きつけられる。死を。

毎日頑張って、看病していた母や姉には見せなかったんじゃないかと。

そのショックを与えないために。

父か神様かわからないけど、何かに守られてる。

私はそう感じた。

そして、父が亡くなった6月23日は私の誕生日でした。

命日は忘れられない日になってしまいました。

お通夜、お葬式が終わり、また自分の生活に戻りました。

最後まで読んで下さった方、ありがとうございました。

 

 

 

 

 

 

 

 

父が入院しました2

5月15日

誤嚥性肺炎を治っては繰り返しているらしいことが

わかり、余命3か月かも?と医師から言われる。

在宅介護にするか、転院するかを決めるようにと

病院側から言われる。

手術が必要な人の為に出て欲しいということだろう。

 

5月18日

ホスピスに入れないことが判明。

介護病院に入ったら月20万円くらいかかるらしい。

家で介護すれば、介護保険を使えて少しは助かるらしい。

介護レベルの判定待ち、介護保険は在宅でしか使えないのか?

知らないことばかりでどうして良いやら途方に暮れる。

 

5月20日

いつ退院できるんや?

うちに帰ったら好きなもの食べると言ってたらしい。

首から輸液を入れる管が繋がる。痛々しい。

 

5月23日

退屈や~

いつ退院できるんや~?

帰ろうとする母や姉に

もう帰るのか?もうちょっとおりや!!と

寂しがっていたらしい。

 

5月24日

歩く練習をしていた。

しばらく、ベットを起こして座っていたらしい。

 

5月26日

仕事が休みの兄夫婦もお見舞いに駆けつけ、

顔が一杯あると喜んでいたらしい。

 

5月28日

家族がおむつ交換の練習。

ベットの上で、体を拭いたり、お尻を洗ったり

する練習をしたらしい。

 

5月30日

介護認定の方が父の様子を見に来て下さり、

認定は2週間くらいかかるとのこと。

この頃の父は会話はできるが物忘れがひどく、

午前中に話したことを夕方には忘れていたり、

トイレにも自分で行けない状態でした。

 

5月31日

朝から心臓が痛いと訴え、心電図を付けて、

調べてみたが、異常なかったらしい。

 

6月1日

明日一時外出して、家に戻るはずだったのに、

又しても、戻れなくなってしまった。

車いすに乗せたら、気を失ってしまったらしい。

 

6月2日

頭を洗ってもらっていたらしい。

母の手を握り、母が手を離すと手を探したり、

皆が一緒に帰った後が寂しいと言ったりした。

メイバランスという栄養補助飲料を持参して

飲ませるが、かなり飲みにくそうにしていた。

(この頃には本人が食べたいものや飲みたいものを

持参しても良いと許可が出ていた。)

 

次につづく。

6月23日、父が他界しました

5月27日に更新したっきりになっていましたが、その時は父が入院しました1と言う形で書いたのは、それが2,3,4と続いて行くであろうと思っていたからでした。

検査の為入院した日から、父は2か月で亡くなってしまいました。

最初に余命を宣告された時は5月の最初頃で、余命半年と言うことでした。

家族みんな年内は持つだろうと思っていました。

思った以上に早く旅立ってしまった父の冥福を祈りつつ、その後どのように時が流れたのかを記していきます。

備忘録です。(尚、看病しているのは姉や母なので、

その時々に連絡して聞いた話をそのまま書いています。)

 

父が入院しました1

4月24日(火)

父が入院しました。

私は父と離れて暮らしているので、何も知らなかったのですが、4月に入ってから、食事の量と動作が極端に減ったとのこと。

そして血液検査をしたら、かなりの貧血とのこと。

入院してすぐに輸血しないと、ゴールデンウィーク中にも命が危ないレベルとのこと。

CT検査。

 

4月25日(水)

胃カメラ、大腸検査。

 

4月26日(木)

大きな胃癌発見。

既に出血、全身転移があり、ステージ4。

手術しても全て取り除くことは不可能。

そして父はかなりの高齢。

 

4月27日(金)

輸血と点滴をして、明日退院することが決定!!(2週間ごとに通院することに)

 

4月28日(土)

退院する為、家族が午後迎えに病院へ。

妙に病室が騒がしい。

いったい何が?・・・。

心筋梗塞を起こして緊急手術。

ステント手術で無事助かる。

退院延期に。

 

4月29日(日)

私が初めてお見舞いに行けました。

夕方到着して、すぐに病院にかけつけますが、弱っている父の意識はボーとした感じ。

初めて痩せた父の姿を見た私は、胃癌、ステージ4、心筋梗塞、そして目の前の父の姿。

立て続けのショックで放心状態になりました。

点滴6種類くらい繋がれ、輸血、そして大きな機械!!心電図やら何やら、いろんな数字やグラフ。何がなんだかわからないけど、おおごと。

素人でもそれはわかるレベル。

 

4月30日(月)

昨日から考えられないくらい、しっかりした感じで話す。

 

5月1日(火)

早朝5時半、病院から電話があり。

何かあったのか?

父が夜中、4回も点滴を引き抜いて、立っていたらしい。

本人を落ち着かせるために、今日はご家族がついていて下さいとのこと。

5分間立つ練習をする。

一日中不思議な幻覚を見ているみたいで、色んな話をする。

例えば、金魚が空を泳いでいるみたいな。

 

5月2日(水)

トイレに行くとき、車椅子を押しながら、歩くリハビリ開始。

 

5月3日(木)

看護師さんと、車いすを押しながら50メートル歩いたと話していた。

 

5月4日(金)

父が突然電話してきて、昨日から入院しているんだけど、誰もお見舞いに来ないのか?とのこと。

寂しいのだろうと、家族そろって皆でお舞いに駆けつけるが、父の記憶は・・・?

入院は昨日からではないのだが・・・・。

 

5月6日(日)

80メートル歩いたらしい。

ご飯は出ていないらしい。

何故入院しているのかを看護師さんや医学療法士さんに聞いているみたいだ。

癌の告知には本人もいたのに、忘れているみたいだ。

心筋梗塞も。

 

5月7日(月)

喉頭癌も見つかる。誤嚥性肺炎にもなっては治りを繰り返していることも判明。

誤嚥性肺炎で亡くなる可能性も出てきた。

今日の目標200メートルだったのに

80メートル歩いたら、点滴が逆流したりで歩く練習終わり。余命半年かもとのことだった。

 

5月8日(火)

一人部屋から4人部屋に移動。

相変わらず食事は出ておらず、点滴のみらしい。

80メートルしか歩けなかったらしい。

 

5月9日(水)

お尻が床ずれでかぶれているらしい。

医学療法士さんが来て、リハビリに連れて行ってくれたらしい。

 

5月13日(月)

車椅子を持って、療法士さんに付き添ってもらって、80メートル歩くのが精一杯だったらしい。

トイレも自分で行けない。

 

5月14日(火)

食べられず点滴で栄養補給。

誤嚥性肺炎の為に余命3か月くらいかもとのこと。

病院から電話があり、在宅医療か施設に入所するのか決断を求められる。

 

5月15日(水)

認知症が出てきているので、ホスピスには入れないとのこと。

介護保険は在宅介護でないと使えないとのこと。

初めて聞くことばかり、知らないことばかり、今まで元気でいた時には考えたことのないことが日々起こり、

精神的にきてました。

 

長い間、ブログお休みしていたのは、

こういう日々を過ごしていたからです。

具体的に私が何をしているわけではないのですが、やはり、実の父のことはこたえます。

現在は介護認定待ち中で、家族が在宅看護に向けて準備中です。全くの素人に何ができるのか、大変だと思いますが、できる限り私も支えなければと思っています。

 

ダイソーでこんなものまで売ってました!!

入れ歯保管ケース。

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開けちゃったので、少し敗れていますが。

そして、これも。

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何故こんなものを買ったのか?

そうです。なんと部分入れ歯デビューをしたのです。ショック!!