レジン・神楽坂大好き   50オバサンの楽しい毎日

毎日楽しく生きるために、色々やってみよう。

私の霊体験5(おじいちゃん!!)

娘が2、3歳の頃の話。

天井の方を見上げて娘が、

「おじいちゃん!!おじいちゃん!!」と

叫んでいました。

まだ言葉を余り話せない娘。(言葉が出るのが

遅い方だったのです)

でも、しっかりおじいちゃんとハッキリ

叫んでいるのです。

おかしい!!と思った私はすぐに実家に電話して、

母にお墓参りしてきて!!とお願いしました。

数日後母から電話があり、

「言ってくれて良かったわ。雨水がお墓に流れ

込んでいて、骨壷が水浸しになってたから、

綺麗にしてきたよ」と言うことでした。

 

 

私の霊体験4(子供の幽体離脱)

赤ちゃんの時はずっと添い寝して寝かせていましたが、

子供が幼稚園に行きだしてからは、リビングの隣の部屋で

寝かせていたこともあり、家計簿をつけたり他の用事を

しながら、時々顔を上げれば娘が見える角度で作業して

いました。すると、ふと顔を上げた時に、娘が二人

見えるのです。

あれ?寝ている娘と座って心配そうに私の方を見ている

娘の二人が見えるのです。

暫くそんな日が続き、不思議に思っていた私は

先輩ママに何気なく話していたときでした。

「きっと、子供が寂しがっていて眠っていても、

ママ何しているんだろうって?考えているんだよ!!

一緒に添い寝してあげた方が良いよ」

その一言を聞いて私はそうかと妙に納得できて、

次の日から一緒に添い寝して、娘を二人見ることは

なくなりました。

 

 

 

私の霊体験3(関が原の合戦場跡にて)

一度、関が原の合戦場跡に行った事が

あります。私は行きたくなかったのですが、

旅のついでと言うか、通り道にあったので、

ちょっと覗いてみようと勧められ、シブシブ

立ち寄りました。

そこで夫がビデオカメラを回し始めましたが、

不思議とこっちは撮ってはいけないと感じた私。

「こっちは撮っちゃダメ!!」と静止し、

撮らせませんでした。

後で案内板を見たら、合戦場跡はまさにそちらの

方角でした。

感覚的な話ですが、撮ってはいけないと感じた時、

私には黄色い風が見えて、聞こえたのです。

「遊ぼう!!遊ぼう!!」という声が。

 

私の霊体験2(中学生の頃、寝床で)

中学校の時、布団で寝ていた私は、何かの

気配を感じて、ふと目が覚めた。

誰かが布団を触っている。私に布団を被せて

くれている。母だと直感的に感じた私は、

眠い目をこすりながら、

「ありがとう」と言って母を見ようと思い、

目を開けた。

すると、丸い赤い光がどんどん離れて行った。

何だったのだろうか?

 

こんな感じで細かい話をすれば、数え切れない

くらいこの家での不思議体験は沢山あるのだ。

当時トイレも男性用と女性用の二つが有り、

中庭からトイレの窓が見えるのだが、

犬の散歩から帰った時とか、何気なく見ると、

男性用トイレで誰かが用を足しているシルエットが

見えて、帰宅後母に聞くと誰も帰ってないと

言うことも数え切れないくらいあった。

この家は老夫婦が住んでいて、二人ともこの家で

亡くなったらしいということは聞いていた。

しかし、その前に昔で言う遊郭の様に使われていた

らしいことも聞いたことがある。

二階に離れの部屋がひとつあったのだが、

その部屋とその部屋から繋がる階段と階下のお風呂場

脱衣所、トイレ辺りがいつも私は怖かった。

何かの存在を感じることが多かった。

残念ながら、数年前に見に行ったときは建て替えられ、

綺麗な家に変わっていたので、今はきっと不思議な

ことも起こっていないのだろう。

 

 

私の霊体験1(小学四年生の自分の部屋での体験)

何故霊体験を書こうと思ったのかというと、父が亡くなり、きっと父を見ることになるだろうと思っていた私の前に父が現れないからだ。

というのも、特別な霊能者だとは思っていないが、多少霊感があると思っている私が、父が亡くなってから、一度も父を感じることが無いのは何故だろうと考えていたときに、きっと父は成仏したのだろうと、納得したのだが、ふと、自分が経験した霊体験を整理したくなったのだ。

思い出した順番で書くので、何年前とかは順不同になるし、作り話でないので勿論そんなに怖い話ではないと思うのだが、たまに凄く怖がる人がいるから、それぞれの人のツボにはまれば怖いだろうし、そうでなければ、ちっとも怖くないと思うので、

怖さを期待する人はガッカリするかも知れない。

 

子供のころ住んでいたのは築100年を越える古い木造の社宅だった。子供が多かった父に会社が貸してくれた社宅は前庭、横庭、裏庭があり、部屋数12部屋、トイレ2つ階段2つ、畳の数は72畳分の家だった。

私や姉の間では今ではお化け屋敷と呼んでいる。

当時、おかしなことが頻発していたので、私は怖い家だと思っていた。良く聞く話だが、二階に人がいないのに人の歩く音が聞こえたりということが、日常茶飯事だったのだ。

 

小学校4年生の頃だったと思うが、一人部屋を与えられていた私は、勉強しようと思い自分の部屋のふすまを全部閉めて勉強していた。(部屋の出口は2箇所あり、1箇所は階段側のドア式のふすまで、もう1箇所は隣の和室に繋がるふすまだった。)

程よく集中し始めた頃だった、ふすまを誰かが叩く様なガタガタガタと和室の方のふすまから音がした。

私はすぐ上の兄がいたずらしているのだと思い、

「今、勉強しているから、邪魔しないで!!」と言ったら、

音が止んだので、また勉強を始めた。

すると数分後また、ガタガタガタと和室側から音がした。

また兄が邪魔していると思った私は

「だから、勉強しているから邪魔しないで!!」と叫びながら

ふすまを素早くピシャっと勢い良く開けた。

すると、緑の光がスッと走った。

当時、兄はすばしっこくて良く緑のジャージを着ていたので間違いなく兄だと思った私は、階下の母に注意してもらおうと

母に言った。

「お兄ちゃんが勉強の邪魔してくる!!」

そう言った私の顔を見た母は不思議そうに、

「まだ、誰も帰ってないよ。家にいるのはあなたと私の二人だけ」

そこから暫く私が二階に上がれなかったのは言うまでも無い。

この話はこれだけです。

こんな感じで短い話を書いていきます。

 

 

 

 

 

父想う2

小学校の時の父との記憶はあまりないが、

小学校の時、喘息で病気がちだった私は

学校を休むことも時々あり、休んだ日は必ず一人で

二階で寝かされていた。

父が帰って来た時に、調子はどうだ?と

見に来てくれるのが、嬉しかったのは

覚えている。

私が父と一番関わった時期は大学に入ってからだった。

電車通学に2時間かかる私と会社まで急行で12分の

父は良く朝の電車が一緒になった。

その12分が会話の時間だった。

以前書いたように、父は仕事人間で家にいなかった

からか、私は思春期でも父を嫌いになったことがない。

今思えば高校入試の合格発表の日、一緒に行ってくれた

のは父だった。

2時間かかる大学の入試の日も一緒に行ってくれたのは

父だった。

そして、就職で実家から出ていくのを反対したのも父だった。

就職先に旅立つ私を新大阪まで送ってくれたのも父だった。

「どうせそんな長い事、続かないだろうと」

捨て台詞のように言って見送った父の目には涙が潤んでいた。

末っ子の私を一人で関東に出すことが不安で仕方なかった

のだろう。

その後、帰省のたびに父の見送りを私が拒否した事は言うまでもない。

大学を卒業してからは完全に離れ離れの生活であまり関わることの

ない日々が続いていたが、父は定年後も数年は子会社で働いていた。

そして、会社を辞めてから暫く、父と電話で話す日々があった。

46年間働いた父はある日突然仕事が無くなると、何をするでもなく

放心状態だったらしく、母が家にいたらボケるんじゃないかと

心配する日々。

この頃結婚して専業主婦していた私は良く母に電話していたのだが、

決まって、お父さんとも話してと電話を変わられ、父と長電話を

していたのを覚えている。

父に趣味でもさせないとと考えた母の勧めにより、その後の父は

カメラ講座で写真を習いに行ったり、マジック教室でマジックを

学び、老人ホームや保育所でマジックを披露したりしていた。

私が出産で地元に戻った時は、後陣痛で2週間寝たきりに近い状態に

なった私の代わりに母と父で子供をあやしてくれたこともあった。

私や母は子守唄を歌って、寝かせようとするのだが、

歌が大好きだった子供は新しい歌が始まるたびに、

目がキラキラしていっこうに眠りにつかず、母と私は抱っこに

限界を感じ父に託す。父は

「ホイホイホイ、ホホホイノホ~イ」を連呼して、ゆりかごの様に

揺らしながら抱っこする。

新しい歌が聞けないとわかった子供は一瞬で眠りにつく。

すかさず私がそっと置いて!!と布団に寝かせる。

父はもっと抱っこして寝かせてあげたいと言うが、

やっと寝た。ゆっくりしたい私は、父の腰の負担を考えての

ことでもあったのだが、すぐに取り上げていた。

子供が小さい間はマジックを見せるのを楽しみにして

帰省するたびに披露してくれていた時もあったが、

子供が大きくなるにつれ、子供も興味を示さなくなり、

いつの頃からか、マジックを披露しなくなっていた。

今年のお正月は食事の量も少し減っていて、

少ない事を指摘した私にダイエットしているみたいなことを

言っていたが、今思えばあのころには少し食べることに

不快感があったのだろうか?

入院してからの父は口癖のように

「どこも痛くも悪くもないのに、何で退院できないんや?」

だったから、本人もほとんど感じていなかったのだろうか?

入院してからは本当にいつも

「早く退院して家に帰りたいのに、何でできないんや?」

と亡くなる3日前までは毎日のように、言ってたらしい。

退院するチャンスは2度あったのだ。

家族も一度でも短い時間でも、帰してあげたいと

思っていた。

一度は胃癌で手の付けようがないとわかった時、

退院するはずだったのに、心筋梗塞を起こして延期に。

もう一度は5時間だけの一時帰宅を計画した日。

その前々日、父は心臓の痛みを訴え、前日は車いす

乗せた時に気を失った。

それからは本当に飲み込むのも大変そうになり、

家に連れて帰れる様子では無くなった。

でも、父は今は遺骨になって家に戻っている。

しばらくは自分の死をわかってさえいないかもと

思っていたけれど、もう気づいている頃だろう。

最近は母が眠っている横に座ってきたり、

母に何かを話しかけて来たと感じることが

母には起こっているらしいが、私や他の家族には

何も見えないし、感じない。

きっと現れると思っていたのに。

お通夜、お葬式、初七日を終えて、前を向いて

進もうと思います。

また、書きたくなったら更新するかもしれませんが、

とりあえず、これを書かなければ心の整理ができなかった

ので、自分の為に書きました。

次回からは写真を載せて楽しい事書けると良いのですが。

自称、前向きなので、きっと変われるでしょう。

 

 

 

 

 

 

 

父想う1

父の死から10日経つ。

時間があると父を思い出す。

お骨になったところも見たのにまだ、父の死を

受け入れられないでいる。

火葬する前に顔を見せてくれるが、あの燃えた後の

お骨が父だとはどうしても思えない。

家族とはそういうものなのかもしれない。

父が元気な時、親戚のお葬式から戻った父は

その日のお葬式で遺族である娘たちが泣いていたことを

話し、自分が亡くなったら、娘たちは泣いてくれる

だろうか?と問いかけてきた。

私は半分テレもあったが、真面目に涙が出ないのでは

ないかと思い、泣かないだろうみたいな答えをしたと

思うが、実際は止めたくても止まらない。

涙があふれ出た。これを書きながらも涙があふれてくる。

私は父親っこではなく、母の方が好きと公言していたのに。

父を失ってから、何かにつけ父親に守られていたんだ

って感じる。別に暮らすようになってから直接何を

してもらったのではなく、心を心で守られていたみたいな。

でも、いつまでも悲しんではいられない。

けじめをつけなければ、忘れるのでは無く現実に起こった

事として受け止めなければ、そして前に進まなければ、

そう思い、頭を整理するためのにこれを書くことにした。

まず父との出会い。

こんな書き出しだと実子ではないのかと思われそうだが、

そうではなくて、私が父を父と認識したのが、小学校の

高学年になってからだったのだ。

そういうと皆不思議がるのだが、父は仕事人間だったのだ。

私が4年生の時に姉に

「あの日曜日だけうちに来る人誰?」と言う質問に

姉が笑いながら答えたのを今も覚えている。

「あの人はあんたのパパよ」

え~~~~!!と衝撃が走った。

そうなの?私お父さんいたんだ。

大人になって父と話した時に父は言った。

「朝6時半頃に家を出て、夜は2時頃帰宅する生活してた

からな~」

だから、日曜日しか会わなかったのだ。納得。